歴史と技術から紐解く、2020年までの仮想通貨の動向
2018.04.06
2009年に元祖であるビットコインが誕生してから9年。
去年には「仮想通貨元年」と呼ばれ、多くの人々が前代未聞のバブルを起こしていた仮想通貨市場に私財を投じていった。
そして今、市場はその人々が元本割れを起こす水準にまで価格が下がり、国内外のニュースで一喜一憂する日々が続いている。
最近になって仮想通貨を知り、投資に邁進していた人々にとっては短いようでいて長い時間を過ごしてきたと感じていることだろう。
気になった仮想通貨が見つかれば、スマホの画面に映る取引所のチャートを眺め、最新の状況を知るべくニュースを追いかける。毎日のチャートの値動きに一喜一憂しながらも、全体で見ればおおむね上がっていることに安心し、また資金を投入する。
そのさなかで起きた年始の大暴落。
そして追い打ちをかけるように発生したコインチェックのNEM流出事件。
引用:https://coinmarketcap.com/charts/
『Cryptocurrency Market Capitalizations』CoinMarketCap
これは過去一年間の全仮想通貨の時価総額を推移を表したグラフだ。
左の矢印が年始の暴落、右の矢印がコインチェックの事件が起こった時期になる。
去年の十月ごろに急激に価格が高騰し始めたが反転、以降仮想通貨全体はどんどん冷え込んでいき、今や10月と同じ程度の水準にまで落ち込んだ。
年始の大暴落が起こっている最中、ネットの反応ではそう珍しいことではないという声が多くあったが、その後どんどん悪くなっていく状況を目の当たりにしていくにつれて、そういった意見は鳴りを潜めていった。
仮想通貨は「ある終わり」を迎えた
去年の10月の水準といえば、「投機商品」としての仮想通貨に人々が気づき、札束とともに大挙して押し寄せた時期だ。
その時と同じような価格になった影響か、「仮想通貨 終わり」というTwitterの検索候補が現れるようになった。
「儲かる」ことができなければ、彼らにとって仮想通貨は無用の長物、というよりも無用のデータでしかない。
一般のニュースでも「億り人」という言葉が取り上げられるなど、リスク高めの儲かる金融商品というイメージが先行し、「仮想通貨の技術も注目を集めています」など中身はついでの報道が多かった。
しかしこの下落の影響か当時の報道の過熱ぶりはすっかり収まり、ネットでも前ほど仮想通貨についての話題を聞かなくなったとの声を聞く。
良いバブルと悪いバブル
これまでの価格上昇を引き起こしていたのは、明らかにバブルであるとの意見が多数だ。
「投機商品」と先ほど言ったように、
年末の価格上昇は中身の成長を伴ったものではないという。
「仮想通貨という新しいものがあるようだ。」
「投資ができて、しかも儲かるらしい」
「既に高騰が起きているから出遅れたくない」
というような心理で価格が吊り上がっていったのが実態であり、そしてある限界を超えたところでバブル崩壊。そして追い打ちのコインチェックの流出騒動が起こり、今に至る。
この現象は別に珍しいことではない。
過去に起こったITバブルとよく似ている。
下のチャートは月ごとにナスダック総合の終値を表したものである。
そして以下が全仮想通貨の時価総額のチャートだ。
引用:https://coinmarketcap.com/charts/
『Cryptocurrency Market Capitalizations』CoinMarketCap
程度と期間の長さの違いはあるが、形がよく似ている。
ITバブルの真っ最中では、企画書を作ればベンチャー創業資金や投資資金が集まるという状況で、ビジネス的にも技術的にも実現できるか疑わしいものであふれていたそうだ。
そんな内容でも資金が集まるというのは投機以外の何物でもないだろう。
そしてこれは、仮想通貨の世界でも似たようなことが起こっている。
株のように独自トークン(仮想通貨)を発行することで資金を集めるICOの中には、果たして本当に実現するのかよくわからないものが多く含まれているというのは有名な話だ。
それにも関わらず、スタイリッシュで見栄えが良いホームページをデザインし、プロジェクトの仕様書であるホワイトペーパーを用意すれば、数千万・億単位の資金が世界中から簡単に集まってしまうのが現状である。
そうして立ち上げたプロジェクトの運営は、進捗をまともに報告しないものも多く、数カ月だんまりなものもある始末。
投資家のほうも大概で、ICOで受け取ったトークンが高騰すればすぐに手放して利益をかっさらっていく。
その果てに起こったのが年始の仮想通貨市場の暴落だというのだ。
仮想通貨はここで一旦、「投機商品」として終わりを迎えた。
問題はそのあとである。
終値が5,000近くのピークになった直後にITバブルが崩壊してのち、ナスダック総合指数は現在7,000になるまで成長を続けていった。
一旦バブル崩壊が起きたのに成長を続けたのはなぜなのか。
チューリップバブル:球根一つ=豪邸から無価値へ
ここでもう一つ別の例を紹介していこう。
1636年から1637年に今のオランダで起きた世界最古の金融バブル「チューリップバブル」だ。
オスマン帝国からもたらされたばかりのチューリップの球根が、ある条件下で独特の模様の花弁をつけるという性質から価格が異常に高騰した。
富裕層がこぞって買い付け、中には平均的なオランダ人の30年分の価格が付くものもあったが、ある時に何の前触れもなく暴落したのがこのバブルの概要だ。
豪邸が買えるほどの値段が付いたチューリップの球根は、最終的にゼロ価値に等しくなってしまったとはものすごいギャップだ。
引用:http://pepera.jp/story_of_bubble/tulip_mania/
『チューリップバブル:最古の金融バブルの凄さをわかりやすく解説』ペペラといっしょ
以後はこのピークの値段を超えることはなく、チューリップの球根が金融商品として扱われることはなかった。
今でこそ、たかが観賞用にしかならないチューリップの球根が豪邸を買えるほどの価格になるとは、なんて狂った世界だと感じることだろう。
しかし当時の人々にとってはその狂気が日常だったのかもしれない。
そしてある時目が覚めて、価格が元のものになっていった。
ここまではITバブルのそれと同じ動きだ。
適当な企画書で莫大なお金が動くという狂気から人々が目覚めて、相応の価格になっていったのがITバブルなのだから。
大きく違うのはそのあと、
「社会がITを欲し、ITも応じて成長した」
これに尽きる。
チューリップの球根は土に植えて育成し、鑑賞する楽しみしか価値はないが、ITは今の身の回りを見てもわかるように社会のインフラとなる力があった。
初期こそ技術的に難しいことはあれど、ITにしかできない需要に応じるべく着実な成長を重ねていった結果が、7,000というバブル期のピークを大幅に更新する今のNASDAQの指数だといえる。
では仮想通貨はどうだろう。
一旦バブルがはじけてしまった仮想通貨が衰退するのか、それとも成長するのか。
それは仮想通貨にしか応えられない需要があるのか、そして仮想通貨は需要に応じてどれだけ進歩できるのかにかかっている。
仮想通貨は「終われ」ない
これまでは「投機」の市場だった仮想通貨が、「投資」の市場に変化していく。
言い換えてみれば、
勢いでお金が集まっていたものが、堅実に実績を積み上げていくことでお金が集まっていく市場に変化していくということだ。
一旦バブルが崩壊した市場では誰もが再来を恐れて資金を動かすことに慎重になる。
「何がまがい物で、何が本物なのか。」
「何が安全で、何が不安なものなのか。」
「何が必要とされていて、何が必要でないのか。」
様々ある選択の中から一番最良だと思えるものにお金が投じられていく時代。
普段の買い物で置き換えたら当たり前のことである。
「この自転車は宣伝文句の通りの質があるのか」
「乗っていていきなり壊れたりしないだろうか」
「自分はどんな機能が欲しくて買いに来たのか」
何でもいいから買っておけば得になるという狂気とは無縁だ。
仮想通貨の本質
狂気から目覚めた人々は当然見る景色が変わることだろう。
基本的に一人乗りで人の移動の出助けをしてくれる二輪車=自転車、と皆が普通に理解しているように、
仮想通貨とは一体どういうもので、どういう意図で使われていて、なぜ必要となるのかという「本質」を見ていこうとする。
「本質」を検索してみると以下のような意味である。
本質…そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素。
では仮想通貨の本質とは・・・?
「欠かすことができない」という意味であれば、「ブロックチェーン」の存在がそれにあたる。
仮想通貨について少し調べた経験があるならば聞いたことがあるかもしれない。仮想通貨の話題はこの「ブロックチェーン」の周りを取り囲んでいるといってもいいだろう。
例えそれが、コインチェックのNEM流出事件という悪いニュースであっても、日本が仮想通貨に前向きな姿勢を見せているという良いニュースであっても、ブロックチェーンはその中心にある。
そんなブロックチェーンが隠し持つ可能性を一言でいえば、インターネットが出現して以来の革新的な技術だと言われているのだ。
ブロックチェーンのインパクトは世界を変え得る
インターネットがもたらしたのは、情報がオープンかつフラットに伝達する世界だ。
スマホという個人の端末が世界中に普及することによって、人々の生活の中にインターネットが浸透していることを考えればそう難しい話ではない。
そして世界のありようを急激に変革していった。
誰もが情報にアクセスできるようになり、なんの後ろ盾のない個人が情報・コンテンツを発信していくことで成り上がっていく。
従来は重要ではなかったCtoCのビジネスが大きな市場となる。
逆に悪い方向ではネットを深く活用した犯罪組織やテロリズムの広がりが止まらなくなる。
などなど、インターネットの出現によってありとあらゆることが根本的な変化を強いられていった。
ブロックチェーン技術はそれを凌駕する可能性を持っているというのだ。
その根本の価値を端的に言うならば、
「仲介者が必要ない」
という言葉に集約されていく。
最初の仮想通貨かつ一番の時価総額を持つビットコインも、仲介者を必要としない電子決済を作るためにできたものだ。
次席にいるイーサリアムも、仲介者抜きで作動するあらゆるアプリケーションのプラットフォームになることを目指している。
ネットの記事やニュースなどでよく出てくる言葉に置き換えるなら、
仲介者あり=中央集権
仲介者なし=非中央集権
ということ。
ほぼすべての仮想通貨に共通する「非中央集権」という特徴は、
ブロックチェーン技術があるから成り立つものなのだ。
IT技術やAIの進歩によって
「人の仕事がとって変わられることになる」
とよく騒ぎ立てられているが、
そこにブロックチェーン技術が加わって語られる時も近いだろう。
なにせ「仲介者」が必要ないのだから、あらゆる仲介の仕事はブロックチェーン技術にとって代わられる可能性がある。
その行きつく先は・・・「国」だ。
政治・行政・安全保障・司法などといった国家というシステムこそ、一国の国民すべてに利益を提供する巨大な仲介者だといえる。
あまりのスケールに疑念を感じるかもしれないが、
現に国だけが発行するはずの通貨が、ブロックチェーン技術によって生み出されて独自の経済圏が作られようとしているのは事実である。
誰も仮想通貨は止められない
そんなこと国が許さないと思われるが、許そうが許すまいが無関係なのが仮想通貨だ。
なぜなら仮想通貨は「止まれ」ないのだから。
ブロックチェーン技術はインターネットの延長で作られた技術だ。
本気で仮想通貨の存在を抹消したければ、世界中のインターネットのアクセスを遮断するしかない。
インターネットが社会基盤となった今、そんなことは不可能に近い。
また仲介者を必要としないため、介入することも難しい。
インターネットが続き、インターネットを利用する人々がいる限りブロックチェーンは半永久的に続くとされている。
あらゆる規制もブロックチェーン技術の普及を遅らせるだけで、根っこから廃止することは誰にもできない。
仮想通貨は転換期を迎えた
先日、日本最大手の取引所のコインチェックが金融証券会社のマネックスグループによって買収された。
また同じく金融のSBIグループも仮想通貨取引所「SBIVC」を夏ごろに設立することを発表済み。
その他の民間企業もブロックチェーン技術の研究・開発・導入を進めている。
もはや、仮想通貨が一部の人々による酔狂のものでは完全になくなったといえるだろう。
仮想通貨、およびブロックチェーンの技術の進歩はもう止まることはない。
今の状況はまさに、ITバブルのその後の動きを思い返すようなものだといえるだろう。
かつても仮想通貨バブルがITバブルの崩壊前の動き・状況がよく似ていると、ネガティブな意味合いで語られることがよくあった。
しかしバブルが崩壊したとされる今、状況は大きく変わっている。
過熱しすぎた投機が冷え込み、大きな打撃を受けたのにも関わらず前に進んでいる姿が、何世代もの時間を隔するような世界の進歩をもたらした、IT技術のそれとよく似ていることに多くの人々は期待している。
2020年の仮想通貨は
2000年代に仮想通貨がこのような広がりを見せていることを誰も予想していなかったように、未来がどうなっているかは誰にもわからないのが現実だ。
せいぜい、歴史と経験・知識をもって未来を「感じ取る」ことしかできないだろう。
ここで未来を「予言」したところで無意味である。
東京オリンピックが開催される2020年は奇しくも、最強の仮想通貨であるビットコインが半減期を迎える時期。
異常なスピードで進歩を続ける仮想通貨・ブロックチェーンが、いったいどんな道のりを歩んでいくのかは、良くも悪くも想像を超えるものとなっていくことだろう。
何せたった1年で巨額のマネーが集まり、人々の注目を集め、世界各国の政府を動かすまでになったのだ。
今後もしかしたら、
人々のお金の使い方が劇的に変わっているのかもしれない。
もしかしたら、
一人一人が仮想通貨に直接かかわる活動をしているのかもしれない。
もしかしたら、
世界各国の政府が仮想通貨を導入しているのかもしれない。
この2年間で仮想通貨が人々にどんな未来を見せてくれるのか。
明るい・暗いに関わらず、急激な変革をもたらすことは間違いのないことだろう。